葉っぱ日記

日々のあれこれを。気づいたままに書いています。

私という大地

子どもたち
み〜んな
私に根付いてる。

特にそう感じるのは
夜、寝るときと
朝、起きたとき。

三人とも身体のどこかが
必ず私にくっついている。

もっと広いところで
寝たらいいのに。

全員ギュウギュウで
私にくっついている。

寝返りはうちにくい。

ときに
無理な姿勢がたたって
身体が痛かったりする。

でも、
こんなに
くっついて
眠れる日々にも

終わりがくるんだよね。

すっかり
私という大地が
その心の奥底に
根付いたなら

もう、私に
くっつかなくても大丈夫。
自分の足で
行きたいところにいって
大丈夫。
 
いつか
子どもたちは
ここから離れて

それぞれが
のびのび
花を咲かせ
実らせていくだろう。

私は一人
広々とした布団で
大の字になって眠り

時々さびしくなって 
ちょっとだけ涙が
でたりするのかな。

そうしたら
私という
この大地が
今度は私を
やさしく包んでくれる。

「よくやってきたね」
「愛しい日々だったね」

そうやって
母なる私に
抱かれて
私も眠るだろう。

あ、そうそう 
旦那もいたな。

たまには
旦那に
くっついてもいいな(笑)。

12月。

はやいもので
もう12月。

今年は
社会全体が
体験したことのない
出来事だらけの
1年でした。

個人的には
大きな転換点をむかえた
とても感慨深い年。

ずっと
ずっと
「なりたかった私」に
やっとなれた。

そんな思いがしています。

だからといって
見た目には
何も変わらず(笑)。

あいかわらず
家事と育児に
バタバタして。

活発になった
もうすぐ2才の次男を
追いかけ回す日々。

「はあーっ疲れたな。」
「まだまだこれは無理だな」と
ため息をついて
天井を見上げることも
たびたびです。

あいかわらず
話す相手は
家族
保育所の先生
ママ友達という
小さな
ささやかな日々。

だけど
私の中では
静かに
確かに
何かが変わったなぁと
実感しています。

「欠けている感覚」とともに
「何かを探し続ける」日々から

「欲しいものはここにある感覚」とともに
「ただ、安心してここにいる」日々へ

見慣れたはずの
景色が
ふと深呼吸すると
ほんわかと
暖かく
愛しく
光を帯びているようで。

「ああ。そうか」
「これなんだよな」と。

くりかえし
くりかえし
そこに触れています。

さて
この私で
ここから 
どんな世界が
創られていくのだろう?

こうやって
今を抱きしめながら
転換点を
超えてからの
世界の変化が
とても楽しみです。

ありがたい。

自分の中に

「穏やかで
とても安心な
帰れる場所がある」

というのは
いいものだなぁと思う。

「どよ〜ん」とした
心身の「重たさ」から
たどりついた
「命そのもの」の
感覚は
よりあたりまえに
私の日常に
寄り添ってくれるようになった。

「命そのもの」で
いることは
穏やかで
ストーンと
落ち着いている。

とても
静かなのに
確かな
躍動感がある。

心臓が脈打ち
血液をおくりだし
呼吸と共にある身体。

そこでは
私は
ただ、ただ
あたりまえに
肯定されている。

「生きている」
ということを
ただ、ただ
慈しまれている。

ああ、よかったなぁ。
生きていてよかった。

ただ生きている
それだけで
もう、すごいことだなぁと
しみじみ感じる。

こういう感覚を
自分の中心に
ずっとたずさえて
生きることは

涙がでそうに
ありがたい。

どんより②

とりあえず
ためしに

この
「鬱々感」のもつ
「どんより」とした
感覚にフォーカスしながら

「あなたはいつから
私と一緒にいるの?」

とたずねてみたのです。

そしたら
「生まれる前から」
「身体ができる前から」
という答えが
ふと浮かんできました。

え?身体ができる前?
ちょっとびっくりして
念の為に確認すると

「そもそもはじめに
これがあった」

「私はこれそのもの」 

なんだって!(笑)。

そうか。私は
この「どんより」そのものなのかぁ。

ここから
スーっと
何かが紐解けるように
するすると
伝わってきました。

これまで
私は
生まれてから学んだ
価値観や思考で
この命を
「ああさせたい
こうさせたい」と
散々
こづきまわして
ふりまわし
あげく
「ダメだ、出来ていない」と
責めたりして

努力しなくては
頑張らなくては、と
いつも自分を
駆り立ててきた。

その度に

この私の
意識による
「企て」そのものを
一蹴し

本来の「命そのもの」へと
還ろうとする。

それがこの
「どよ〜ん」なのだと。

ここにあるのは
私が「知っているつもり」でいる
この馴染みの私ではなくて

もっともっと
大きく深く
エネルギーと
不可思議に満ち溢れた
「命」そのもの。

この大きな「命」を
小さな意識で
言葉で、価値観で
しばりつけようとしてきた。

それはまるで
象の頭のてっぺんにいた
小さなアリが
自分ですべてを
操っていると

錯覚し

「思い通りにならない」と
大騒ぎしては、嘆くようなもの。

自分に世界に
絶望するようなもの。

だから「そうではない」と
この「どんより」は
定期的にやってきては
私に伝えていたようなのです。

ここまで
何かが見えてくると
ずーっと
どんよりと
霞んでいた視界が
クッキリと晴れ渡るような
感覚がしました。

「おもしろいなぁ」
もう、何もしたくないから
この「どんより」に
フォーカスして
とにかく力を抜いて
しばらく
暮らしてみようと
思います。

どんより①

ブログを
なかなか書けずに 
夏が終わり
ひんやりとして
9月も終わりを迎えそうです…。

ここのところ
疲れがでたのか
子どもたちが次々に発熱。
幸い
みんなあわせて
1週間で落ち着きましたが

看病疲れと
季節の変わり目の
重たいスパイラルで
どんより
ぐったり
無気力にすごしています。

本当に本当に
な〜んにもしたくない。

洗濯物?
干したくない。
茶碗?
洗いたくない。
片付け?
したくない。
落ちてるティッシュ
ゴミ箱に捨てるのにも
身体が重たい(笑)。

でもでも
3人の子育ては
休みなし。

何とか、ごまかしごまかし
必要最低限のことをしながら
日々をやりすごしている状態です。

ところで
この
「何もかもやめたい」
「生きてるだけでもしんどい」
サイクルは
ふとしたきっかけで
定期的に
私の人生にやってきます。
 
がんばってきた
何かは
突然色あせて
無意味で
無価値な
ただの苦行に感じられ

中学や高校は
定期的に
ズル休みして図書館へ。

大学は途中から
行かなくなり
結局、退学へ。

仕事もプツンと糸が切れて
結局、離職へ。

社会に適応できない
罪悪感と無力感を
山ほど募らせ

「何もできない私」
「結局こうなる私」
という馴染みの感覚とともに
ずし〜んと
どうしようもなく
人生をさえぎってきました。

「これさえなければ
私、今頃
もっと違ってた」

正直、どこかで
そんなふうに感じるくらい
私にとって
とても
影響力の強い
この鬱々感。

もう、本当に
重たくて
他に何もしたくないし
毎度毎度すぎるので
これまで

「なるべく気を紛らす」ように
「やりすごして」きたけれど

ちょっとじっくり
時間をかけて
向き合ってみることにしました。

そしたら
ちょっと意外な
おもしろい発見がありました。

8月も後半

あっつい!
ほんまに暑いですねぇ。

せっかくの夏休み。

子どもたちを連れて
どっか遊びに…
と思っていたのですが
コロナのこともあったりして
結局お家でゴロゴロ
のんびり、過ごしています。

「近くの川で川遊び…」
と思っても
「暑いしなぁ」
「1歳のチビが動き回るよなぁ」
「ケガさせないようにするだけで
ゲッソリやろな」
「疲れて翌日寝込みそうやな…」

と44歳。
夫婦で尻込みし
結局、家の前で
プールを出して水浴び…。
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それでも
子どもたちは
喜んでくれるので
今年はこれでいいかぁ。

こうして
8月も折返し地点。

とにかく
元気ですごせたら
それで充分、という
夏になっています。

満月

今夜は満月。
寝室の窓から
まんまるお月さま。

「うさぎがいるわ〜」
「なにうさぎかな」

消灯してからも
まだまだ
おしゃべりしたい長女。

みんな
寝静まって
私も眠くなって
目をつぶると

「みぃちゃんより
先にねたらあかん」

「おきてるで〜」

「めぇつぶってるやんか〜」

という
いつものやりとり。

「ほんなら
うたってあげるから。
おめめつぶって
きいて〜」

長女は歌が好きなので
私がうたうと
静かになります。

「雨降りお月さん」
「月の砂漠」
「カエルの銀の笛」
「でたでた月が」

月明かりの中で
幼子に
のんびりと
うたってきかせる
幸せ。

月がでてくる歌は
どれも
やさしくて
眠くなるなぁ。

長女の目が
トロリと閉じるのを
見守ったら
さて
今日も、おしまい。

「一日ありがとう」

胸をなでおろし
自分に伝えてから
私も寝ます。

おやすみなさい。