葉っぱ日記

日々のあれこれを。気づいたままに書いています。

「慈愛」について

こんにちは。
もうすぐ夏もおわりですね。

私の方は
夏休みの子ども達と
なんとかひいこら、日々をすごしています。

ブログの更新もままならず。
書きかけては「下書き保存」が
たまってしまいました。

でも、このテーマは
自分にとってコアとなる何かだから。

やっぱり、書いておきたい。
残しておきたい。

「慈愛」について。

ある、メルマガでこんな風に
表現されていました。

以下抜粋↓

【「慈愛」とは

『わるいこと』を考えない、見ない、聞かない、話さない、感じない心」

のことです。

逆を言えば、

「慈愛」とは、

「良い部分を意識して考える、見る、聞く、話す、感じる心」

のことなのです。】
 
この後に、自分の身体の
「いいこと」を書き出すワークなどが
紹介されていました。

ふんふん、なるほど〜。 
うん?いや。
これはちがうな。ちがう。
何故かはわからないけれど
私にとって
これは「慈愛」とは違うって
はっきりと分かる。

とっても違和感があったので
グーグル先生にきいてみました。

「慈愛」とは
「親がわが子を愛し、育むような愛」
「自分より小さく、弱いものを守り育む愛」
といった表現に出会いました。

う〜ん。そう?そうなの?
かすってる、いい線いってる。
でも、やっぱり「ちがう」。
大事な何かが欠けてる気がする。

自分にきく。
じゃあ、「慈愛」ってなに?

それは
例えば。
例えて言うなら

この世界でたった1羽しかいない
眩しく輝くような美しい蝶々を
育てる機会をいただいて

大切に大切に卵から幼虫、蛹へと
育てていくのです。

どのプロセスは
息を呑むほどあざやかで
変化に富んでいて。

その蝶々は羽化して 
亡くなるまで
たった一日しか生きないような
儚く貴重な命なのです。

その蝶々の最後の一日は
それはそれは神々しくて
刻一刻と姿をかえる
夕焼け空のように美しくて

その蝶々を
瞬きする間も惜しいくらいに
大切に精一杯、見守っている。

その存在そのものが
とにかく
貴重で、愛しく
美しくて、かけがえがない。

たとえ、
触覚がまがっていても
羽が縮れていても
ウ○チしたとしても。

それさえ
愛しく、大切でたまらない。
興味深く、慈しみながら
すべてを肯定しつつ
見守っている。
そんな眼差し。

これが「慈愛」だよね。(長っ!)
と、ここまで想い浮かべた時に


「こんな風に、宇宙は私を
 みているんだよ」

「こんな風に大きな何かは
私を見守っているんだよ」

って。
ストーンと伝わってきて。

こんな「慈愛」の中で
私は生きている。

この世界でたった一人しかいない
「私」という彩りを生きている。

そう、理解しました。

一挙手一投足が
儚く、美しく、愛しい。

私の意識が
認めようと
認めまいと。

命はいつも
すっかりと
そんなまなざしに
包まれている。

それが「慈愛」。

ここに気がついてから。
私の中の何かが
カラリと音をたてて
変化しています。